LOGIN「杏華さん。お疲れ様」
すると、そこにまた声をかけられ、その方向に振り向く。
「あっ、編集長。お疲れ様です」
その人は、この企画をしてくれた編集長だった。
「すごかったわ。驚いた。あなたの撮影」
「え。見ててくださったんですか」
「えぇ。前の仕事が押してたんだけど、ちょうどあなたの撮影から間に合ったの。よかったわ、間に合って。まさかこんなスタイルで挑戦するとは」
「ヘアメイクさんのおかげです」
「ヘアメイク? あぁ、そういえば急遽自分で見つけてくれたのよね」
「はい」
「やっぱり、あなたに自分で探させて正解だったわね」
「正解?」
「この企画は自己プロデュースでしょ。ヘアメイクとの相性って実はすごく大切なの。自分の意見、ヘアメイクの才能、それをすべて形にさせられる力って、無限で大きな可能性が生まれるの。ヘアメイクの力だけで、モデルの知らない魅力を何倍も引き出すことが出来る。どうせなら、
「ねぇねぇ。桐生さんとはあのあとどうなったの~?」次の現場の楽屋で、夏希はヘアセットをしながら興味津々に聞いてきた。「あっ、うん。おかげさまで、ちゃんと誤解も解けました」「よかった~!」鏡越しの夏希は自分のことのように喜んでくれている。「彼ね……。私を、ちゃんと信じてくれてた──」あのときの彼を想い浮かべながら言葉にすると、嬉しさと温かさでまたいっぱいになる。「ね! 言ったでしょー! 絶対大丈夫だって!」「うん──」夏希の力強い言葉に嬉しくて自然に笑みが零れる。「私が自信なくて、信じられていないだけだった」「そこまで自信なかったのは、やっぱり自分を信じてもらえてなかったから……?」「うん。それもあるけど……。それだけではない理由が彼とはいくつもあって──」私と一弥さんの関係は、そんな言葉だけで説明出来るほど決して簡単ではない。たとえば普通の恋人同士なら、誤解やすれ違いで信じてもらえないからって自信を失くしてしまうのは、よくある話なのかもしれない。だけど、私たちは……、政略結婚で私は綾乃の身代わりで、そこに最初から愛なんてものは元々存在していなかった──。最初から信じ合えるはずもないそのいびつな関係は、そもそも普通の関係を築けること自体不可能だったのだ──。「そもそも桐生さんとは実際どういう関係なのかも気になってたんだよね~。あの感じだと元カレとか、そういう感じ?」「元カレ……。フフッ。そんな素敵な関係ならよかったのに」「え? それ以外の関係って何? なのに、あんな親しげな雰囲気、謎でしかないんだけど」夏希は、これからずっと私のそばに一緒にいてくれる人だから、ちゃんと話しておこう。彼との関係も、そしてこのお腹の子供のことも……。「そのことで、夏希に話しておきたい大切なことがあるの──」私は後ろに身体を向けて、夏希の目をしっかり見つめながら伝える。
「私ね! 本当にあのとき夏希のおかげで、なりたい自分になれたの。”出来ない”と思っていた弱い心を引っ張り上げてくれて、まだ気づいていなかったこの仕事の楽しさや自分のこと気づかせてもらえた」私はつい嬉しくなって興奮気味に話してしまう。「あぁ──。あの撮影を見て、それもちゃんと気づいていた。夏希さんは、きっと杏華の魅力を誰より輝かせてくれると、そう確信出来た」一弥さんは、そんな私に驚くことも戸惑うこともなく、さっきから見つめる優しい眼差しのまま言葉を返してくれる。「本当に──? あなたもそのときから、そう思ってくれていたの?」「あぁ。あれは言葉に出来ない感覚のようなものかな。相性というか空気感というか。あの撮影を見ていただけで、杏華と夏希さんのその雰囲気は十分感じていたよ」「そうだったんだ……」「お互いがお互いを心から信頼し合っていて尊敬し合っている。それぞれが求めていること・伝えたいことや表現したいこと、すべてがきっと二人は共鳴し合っていたからだったんだな──」「うん、そうなの! 嬉しい! 一弥さんわかってくれて」私が喜んだ姿を見せると、一弥さんは優しく微笑みながら見つめる。「あと──。その撮影の日のこと、お前の誤解をちゃんと解いておきたい」一弥さんは真剣な表情に変わり、私を見つめ直す。「誤解?」「あのとき、俺は編集長に話があって会いに行ってただけだ。綾乃の撮影は一切見ていない」「──え? そう……なの……?」「あぁ──」一弥さんが私をまっすぐ見つめながら返事をする。それはごまかしてる感じでも、動揺してる感じでもなかった。「じゃあ、たまたま私だけ見てもらえてよかった」そっか。じゃあ編集長さんに用事があったから、私はタイミング良く見てもらえたんだ。あの順番でよかった。「そうじゃ
「杏華──」見つめ合ったまま動けないまま、何も言葉に出来ないままの私に、彼がそっと声をかける。「あ……。えっと……。うん……。わかっ……た」私は、ただそんな反応しか出来なかった。だけど、私がそう反応したことで、彼は切なそうな表情から、安心したかのような柔らかい表情に変わる。そして、静かに穏やかに、私にそっと優しく微笑む。そんな一弥さんを見たら、私の心もスッと穏やかになってくる。彼が……、あの一弥さんが、私にこんな素直な感情を吐き出してくれた……。山よりも高いプライドを持っている一弥さんが、こんな姿を見せている……。ここまでしてくれるなんて、彼はどれほど勇気がいっただろう──。どれだけ、大きな決心がいっただろう──。別人かと思えるほどで、今目の前にいるこの人は、本当に私の知ってる一弥さんなのか、信じられないくらいだ……。でも、ここまで私に本音を伝えてくれた彼に、私もちゃんと伝えたい。私の今の気持ちを──。「あの……一弥さん……」私も勇気を出して、彼に声をかけた。「ん──?」彼は優しく答えた。「私も……。ごめんなさい……。あなたに、つい拗ねたような態度取っちゃって……」私は伏し目がちに、自分のそのときの行動を謝った。「拗ねた……?」「撮影のとき……。綾乃の撮影だけ見に来てたでしょ……? 本当は、私の撮影も……。私だけを、見ていてほしかったの──」恥ずかしくて、どんどん俯きがちになっていく。だけど、本当は伝えたかった言葉。他の誰でもない、私だけを見ていてほしかった──。だけど、彼からまたしばらく何も言葉が返ってこなくて、私は顔を上げられず、言葉を求められないまま、またただ彼の反応を待ち続ける。ただ待つだけなのに私の心臓は緊張して、うるさく響く。この静けさの中で、その音が彼に聞こえてしまわないかと心配になるくらいに
それから夏希は帰っていき、一弥さんとの二人きりの時間が訪れる。私は夏希を見送ったあと、彼が座っているソファーへと戻ってくる。L字型のソファーに少し距離を開け、彼の斜め向かいに腰を降ろす。一弥さんは、隣で私が淹れたコーヒーを味わっている。二人だけの静かな空間。こんなふうに同じ部屋で、二人で過ごすのはどれくらいぶりだろう。しかもあの頃は、彼が醸し出す冷たい雰囲気に、私は話しかけられなくて、静かになってしまっていた空間。だけど、今はその頃のような冷たい感じではなく、ただ言葉にしなくても私たちの纏う空気が、なんだか柔らかいというか温かく感じるというか……。初めて感じるこの感覚に、なんだかちょっと安心する──。今なら、一弥さんとちゃんと落ち着いて話すことが出来るかも……。まだ、帰ってほしくないな……。一弥さんと、ちゃんとゆっくり話がしたい──。私は紅茶のカップを手にとり、一口飲んで心を落ち着かせる。これを飲んだら、彼に話しかけよう。そう思いながら、彼の方にこっそり目線をやる。「──杏華」すると、そのタイミングで、彼がこちらを見ないまま伏し目がちに私の名前を呼ぶ。「あっ、はい──!」私は話しかけようとしたタイミングが、あまりにも同じだったせいで、思わず勢いよく呼びかけられた声に返答する。私は、そのままティーカップをお皿に置き、彼を見つめる。だけど、彼はまだ伏し目がちなままで、私の方を見ようとしない。また部屋の中がしんと静まり返り、私はただまた黙ったまま彼の次の言葉を待った。すると、しばらくすると、彼がようやく口を開いた。「あの……。さっきは、すま……なかった……」すると一弥さんが口をごもらせながら、小さく呟いた。「え……?」謝っ……た……?まさか、あの一弥さんが……?私は初めて聞く彼のその言葉に、現実味を感じられなくて、そのまま固まってしまう。「ここに来るのが夏希さんだって知らずに……、あんな一方的に、責めたりして……」もしかして、さっきの自分の言動を謝ってるの……?「だけど……。決して、お前を信じてないわけじゃない──」一弥さんはそう言って、ようやく顔を上げ、私と視線を合わせ、まっすぐ見つめる。その視線は、今までのように威圧的でも力強くもなかった。その逆で、どこか少し悲しそうな、どちらかといえば自信が無さげ
「これはあなたにしか頼めないことです」一弥さんは、少し冷静な声で呟いた。「私にしか……?」夏希に向ける一弥さんの眼差しが少し鋭くなる。その雰囲気と、その条件という言葉に、私までなんだか少し緊張してしまい、不安になってくる。一弥さんは、一体夏希にどんな条件を……。「こちらの言う『専属』というのは、ただ現場で”ヘアメイク”をするという簡単なことだけではありません」「それは、どういう……」「どんな現場や仕事でも、常にあなたは杏華の相方としてそばにいて、彼女を守ってもらいたい」「杏華を守る…?」「そうです。杏華はこの業界で敵も多い。だが自分だけで立ち向かえるほどの力も強さもまだありません。なので、あなたには、どんなときも杏華を守りながら力を貸し続けてやってほしい。それは、あなたのすべての時間を、杏華のために『奪う』ということです──。……もし、その覚悟がなく、そこまで杏華の人生まで背負えないということでしたら。この話はすべて、なかったことにさせていただきます」それは思ってもみない条件で、私はただ呆然としてしまう。「あなたにそれだけの価値があるように、うちの杏華の価値も、俺と共に全力で守ってもらいたい。これがこちらの条件です」私を守ることが条件……?私にあなたは、そんなにすごい価値を感じてくれているの……?まさかそんなことを考えてくれてただなんて……。彼が夏希に伝えたすべての言葉は、彼がそれだけ私を大切してくれているように思えて、私は胸がいっぱいになる。「えっ? それが条件……? なんだー焦ったー! どんな条件かと思ったら、そんな嬉しいこと! 私でよければぜひ彼女の力にならせてください! っていうか、私も杏華といられたら、きっともっと自分自身もパワーアップ出来るので!」夏希はそれを聞いても戸惑うことも怯むこともなく、一弥さんに微笑みながら堂々とそう宣言してくれた。すると、その夏希を見て、フッと一弥さんの顔が緩み小さな笑みが零れる。「では、これからよろしくお願いします」一弥さんがそう言って、夏希に手を差し出す。「こちらこそ! よろしくお願いします!」夏希はその手を取り、二人は固い握手を交わす。まさかこんな展開になるなんて思ってなかった──。私の意見をちゃんと聞いてくれて、そしてこんなにスムーズにそれを受け入れてくれた。私
すると、ずっと厳しい表情をしていた一弥さんが、夏希の言葉を聞いた瞬間、ふとその表情が緩み柔らかい雰囲気に変わる。「──わかりました。あなたに杏華をお任せします」そう言って一弥さんは満足そうな表情を見せる。「え! ホントに!? 一弥さん!」「わー! ありがとうございます! やったね杏華!」「うん! 嬉しい!」私と夏希は喜びを分かち合う。「きっとあなたなら、杏華の隠れていた魅力も、元々持っている魅力も、最大限に輝かせてくれると期待しています。どうやら、あなたと杏華はよっぽど強い相性と絆で結ばれているみたいですからね」「はい! 任せてください! 必ず期待にお答えします!」「そこまで出会ったすぐに信頼を寄せ合える関係なんて、なかなかないと思います。杏華がここまでその意志を貫こうとするほどとは……。ある意味、あなたが羨ましいです──」そう呟いたかと思ったら、一弥さんはどこかしら少し切なげな目で、私を見つめる。その視線とその言葉に、思わず私も何も言えないまま、彼を見つめ返す。きっとこの瞬間、お互い感じてることや、思ってることは同じのような気がした。私と一弥さんとは、何年かかっても成し遂げられなかったことだから──。でも、今の一弥さんとなら、私たちは、ほんの少しずつでも信頼出来る関係になっていけるだろうか。たとえ、それは夫婦や家族ではない、ビジネスパートナーという関係だとしても──。そう思うと、やっぱり寂しくてチクリと胸が痛む。だけど、今の関係になっていなければ、今の彼を知ることも出来なかった。今は、それだけでも嬉しく思えるから──。「ありがとう。一弥さん」私は彼に穏やかに微笑みながら伝えた。「あぁ──。これからお前は、お前が信じるものを貫けばいい。俺も、お前を信じるから──」私の目をまっすぐ見つめ、伝えてくれた彼の力強いその言葉
「わあ、すごく綺麗なお花!」 綾乃は、私の腕の中に抱えられた花束を、目を輝かせて見つめた。 私は反射的に花束を抱き寄せる。 「この花は……」 言い終える前に、すらりとした長い手が、私の腕の中から花束を奪い取った。 呆然と顔を上げると、そこには桐生一弥の、感情の揺らぎひとつない瞳があった。 彼は、私が心を込めて選んだ――純潔な愛を象徴する白いバラの花束を手にすると、そのまま自然な動作で振り返り、綾乃の前に差し出した。 「誕生日おめでとう、綾乃」 低い声だったが、突然静まり返った個室の中には、はっきりと響き渡った。 綾乃は驚きと喜びの入り混じった表情で花束を受け取り、顔を花びらに
【プロローグ】 初恋は実らないものだ、と人はよく口にする。 私はそれを信じず、初恋の人と結婚した。 結婚三周年記念日。 私は妊娠をした身で、ミシュランに引けを取らないほどのご馳走を並べ、彼の帰りを待っていた。 すると彼から一本のメッセージが届き、ある高級レストランの住所だけが記されていた。貸し切りだと。 ついに彼も気が回るようになったか、サプライズを用意してくれたのかと思った。 ドアを開けた先にあったのは、私の妹・綾乃の誕生日会だった。 その瞬間、私はすべてを悟った。 自分だけが幸せだと思い込んでいたこの結婚は、最初から最後まで私ひとりだけの独り舞台だった。 私はあの子の影
目を覚ました瞬間、強い戸惑いに包まれ、次いで記憶が断片的に一気に押し寄せてくる。 気付けば無意識のうちに私は下腹部をかばっており、鈍い痛みが走った。 そのとき、そばにいた一弥さんの姉の真琴さんが私が目を覚ましたことに気付き、慌てて駆け寄る。 真琴さんは私の手をぎゅっと握り締め、声を震わせながら言った。 「よかった……やっと目を覚ましたのね。お医者さんが言ってたの。急激な精神的ショックと、長期間の心身の抑圧が原因で、切迫流産の状態だって。今は安静が必要よ。……ねぇ、どうして妊娠していること私に言ってくれなかったの?」 「どうして、私は病院にいるの? どうして真琴さんがここにいるの?」
「お姉ちゃん、どうしてあんなことしてバレないと思ってるんだろ」 え……、あんなこと……? バレる……? なんの話……? 「まさか、あいつが俺の知らないところで、男漁りしてるなんて心底見損なったよ」 男漁り……? さっきも、それ言ってたけど……どういうこと……? 「お姉ちゃん、もうそれ病気なの……。一人の男性では満足出来なくて、常に自分の欲望を満たしてくれる男性を探し求めてるの」 ちょっと待って……! あまりにも身に覚えのない酷い綾乃の嘘に私は驚いて言葉を失くす。 「俺もまんまと騙されたよ。まさかずっと清純なフリをしてたなんてな」 酷い……! 一弥さんもどうしてその言葉を信じるの…